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幼少期のころ

 私は勤勉なサラリーマン夫妻の長男として、ごく普通の家庭に生まれました。
普通、赤ちゃんは産まれたときには「真っ赤」なんですが、私は「真っ白」だっ
たという身体的特徴を備えていました。そのせいか、4歳くらいまでは初対面の
人には男の子とは思われていなかったそうです。
 このことが今の私に影響を与えているかどうかは分かりませんが、母はこの話
を私に何度も聞かせたので、自分の素材としてのポテンシャル意識を小さいうち
にある程度刷り込まれてしまったかもしれません。

 私が5歳の時に妹が生まれたので、その時初めて「お兄ちゃん」というジェン
ダーを背負うことになります。ある日母が黄色い布でリボンを作って妹の頭に着
けていました。私は素直な気持ちでうらやましく、母にお願いして私の分も作っ
てもらったことがありました。
 でもそれからは、母は警戒したのか私から可愛い物を遠ざける教育を始めまし
た。理由は「お兄ちゃん」だから。私はこのとき、将来にわたって何かとても思
い物を背負わされたような気がしましたし、男の子が何で可愛くしたらだめなん
だろう、という純粋な疑問で泣きそうになっていた記憶があります。
 このようなことはT'sの方でなくても結構皆さん経験があると思うんですが、私
たちみたいなタイプの人間には、よりショッキングな経験として印象深く残され
ているように思います。



小学生のころ  小学生時期は私の暗黒の時代です。スポーツは万能でだめ、そこにいるのか居 ないのか分からないほどおとなしく、白くひょろひょろで、ただ勉強だけが出来 るという最悪のパターンでした。  このころの私は「男らしい」ということが本当に嫌いでした。周りにいる男の 子はとにかく乱暴で喧嘩っ早く、デリカシーが無くて思いやりがないように思い ました。そしてそういうことが「男らしい」という風潮が世の中にあったように 思います。  そんな私でも高学年になってくると好きな女性を意識するようになりました。 でも、その意識の仕方が「健全な」男の子とはちょっと違っていたんです。それ は、 「彼女を僕の物にしたい、手をつなぎたい」っていうようなものではなく、 「彼女のようになりたい、同化したい」というような、憧れる感じでした。 「私も柔らかい髪の毛を、うなじにかかるようにさらさらと伸ばしてみたい、あ んな柔らかそうなほっぺたになってみたい、あんな体の形になりたい」と毎晩の ように寝る前に考えていたと思います。  このような恋愛パターン(?)は、後々高校生ぐらいまで続いていきました。  母親の下着をこっそり着てみたのもこの頃でした。タンスの下から4番目の引 き出しを開け、白のボディースーツを着てみました。すばらしい感じでした。 「甘美な感じ」を、ちょっと爽やかにしたような、不思議な感じでした。その瞬 間自分の体が女の子に変わったような錯覚に陥りましたし、鏡に映してみても女 の子に見えました。このときに私の方向は定まってしまったのかもしれません。  実はこれは母に見つかってしまい、いろいろ問いつめられた覚えがありますが、 なんと言い訳したらいいのか、謝ったらいいのか、でも悪いことをしたという意 識もないので、とにかく一日黙っていたという覚えがあります。見つかったとい うショックよりも、着たときの感じの方が私には印象的だったようです。
中学生のころ  このころになると、私にも性欲が出てきました。中学2年生になると、マスタ ーベーションを覚えたのですが、やはりちょっと(?)想定する役割が違ってい ました。私はそのとき、心の自分は女性になりきっていたのです。「そのときの 自分と同年代の女性である自分を少し年上の女性が可愛がる」というシチュエー ションに浸りきりました。同時に、私は「類い希なる変態なんだ。」という自壊 の念に襲われる毎日でした。試しに「自分は男なんだ!」と思いながら望んでみ ても、勃起さえしなかったんです。  具体的な女性性に憧れ始めたのもこのころでした。  同年代の女の子はこのころから料理とか結構出来るようになっていて、私も女 性らしい特技が欲しかったので親に頼んで教えてもらいました。高校に入った頃 の夏休みにはにはもう、家族の夕ご飯を作っていた覚えがあります。  そしてピンク色の可愛いものにとっても憧れました。ブラシ、シャーペン、靴 下、Tシャツ、などなど。ピンク色の物を身につけると、自分がナンカ女の子にな ったような、くすぐったい気持ちがしました。  ピンク色のレディースのショートパンツを買って帰って親に怒られたのもこの ころだったんじゃないかな。親は多分、私がおかまになると心配したのだと思い ます。  皆さんご存じだと思いますが、このころストップひばり君という漫画が一世を 風靡していました。 この漫画が「健全な」同世代の人たちに指示されていたそのころの現状は、私に そのように生きて行ける社会的な可能性が生じるかもしれないことを示唆してい るようにも思えました。  「ひばり君」はスポーツ万能、成績も抜群で自由な校風の学校に通っていまし た。「勉強が出来て、進学高校に行けば、周囲の人は、このような事をしていて も許容してくれるんだろうか?」と考え、似たような雰囲気の都会の進学校を目 指しました。
高校生のころ  このころになると私にも男性性が現れ始めました。親友と呼べる男の子の友達 が出来たのもこのころでした。小学生の時から欲しかったバイクを手に入れ、ひ たすらスポーツ性を求めてコーナーというコーナーを攻めまくっていました。 男性性の新鮮さを楽しんでいたようにも思います。  自分自身の「ひばり君化」には、容姿の面から相当の無理があることを認める ことが出来る冷静さが備わったためかもしれません。  その一方で、マスターベーションの時や夜寝る時なんかは、相変わらず女の子 になりきっていました。そして髪の毛のカットにこだわりを持つようになり、床 屋ではなく、美容室に通うようになりました。理由はやはり、女の子風のカット をしてもらうためでした。
大学生のころ  大学生になると時間ができました。高校生の頃ちょっと何処かに行っていた女 の子の部分も戻ってきました。早速髪の毛を伸ばして、うなじにかかる髪の毛の 心地よさを味わいました。  そしてついに通信販売で女性下着を買ったりしました。いわゆる下着マニアで はなかったので、わたしの新品が欲しかったんです。幸せで、心が温かくなりま した。  そしてこれはどうも、小包を受け取った大家さんから親に連絡が行ってばれて いるようなんです。私はしらを切っているんですけどね(笑)。  服装にしても男性用のTシャツを買わなくなったのもこの頃ですし、女性用の トレーナーにスパッツで通学したこともありました。外に出ていくあたり、今よ りも度胸がありました。  初めてシャドウを入れて写真を撮ってみたのもこのころだったんですが、はっ きり言って不細工でした。現像は普通の写真屋さんに出したはずですので、やっ ぱり今よりもよっぽど度胸があったのかもしれません。  このころのわたしは、ものすごい勢いで自分の中の性の垣根を取り払っていき ました。ただ単に自己暗示が得意だったのかも知れません。
社会人になって  このころから「女の子の沙月」は、誰にもじゃまされない時間や場所に、その 存在を追いやられていきました。いや、ほとんど存在自体、消えかかっていたの かもしれません。  社会人になれば必然的に男性性の中に自分の身を置くことが余儀なくされます。  大学生の頃自分の理想と女性性を際限なく解放していた私は、人並みに勤務す るだけで必要以上に疲れ、「日曜日から日曜日をつないでやっと生きる」生活を その後4年間ほど続けることになります。  そしてこの期間に私は自分の社会人としての精神的危弱性をいやと言うほど認 識することと、それに適応して男らしく仕事をこなす要領と自信を、結果として 得ることになりました。
インターネットをはじめて  社会に出て実に10年目の冬、私の会社にもついに一人に1台パソコンがあて がわれました。パソコンアレルギーで機械物が苦手な私は、実に今年になるまで パソコンの電源を入れることはなかったのです。でも、覚えなければ生きていけ ない‥‥。  そこで自分を餌で釣るために、まずパソコンを使った楽しいことが出来るよう になろうと思いました。それがインターネットです。最もこの頃は、インターネ ットって何のことか分かりませんでしたけど。  電源スイッチを入れることから始めて、やっとネットにつなぐことが出来た私 は自分の中で興味のあること全ての分野でいろいろ検索していったのですが、い つの間にか検索するページはT's関連のサイトばっかりになっていました。  社会生活に適応するために、25歳くらいから無理矢理性格を「勢いのある男」 に強制してきた私にとって、ネットの世界はいわゆる「パンドラの箱」そのもの だったのかもしれません。  そして今のT’sの世界の概要が全く分からなかった私が、そういうところに たどり着くために最初に検索したキーワードは、いわゆる「女装」でした。  そこからリンクをたどる形でいろいろな方のHPを一通り拝見し、様々なスタン ス、タイプの方がいらっしゃること、T'sの方にもすてきな心を持っている方は沢 山いらっしゃる(当たり前ですけど)ことがわかり、自分は「類い希なる変態で ある」という自壊の気持ちが薄らいで行くのを感じました。  そして、リンクをたどっている途中で、私のT'sに関する意識を大きく変えてし まうページに出会います。 そのページには自分がT'sであることの負い目はなく、でも境目を揺れる自分の気 持ちが正直に反映されており、マスターの繊細さや鋭さみたいな物が伝わってき ました。  その上マスターが何より美人だったんですが、HPの中でそれを売り物にするよ うなところがなく、それがご本人のリアリティを確かな物としていた印象があり ます。「私自身も、T'sでいても良いのかもしれない」と思いました。  そして「男でもなく、女でもない」という表現が、私自身のことを分析し始め るきっかけとなりました。  さらにネットを泳ぐうちに、徐々に自分の中の「T'sの部分」がそう小さくなく、 徐々に増幅してきていることに気づき始めた私は、自分自身のことを分析して自 分自身が分からなくなってうろたえてしまい、「自分はどうしたら良いんだろう」 みたいな事を、自分と家族構成の似ているある方に、先日いきなりメールで相談 に乗って頂いたのです。  メール初対面の私からの突然の質問にもかかわらず、とても親切に対応して下 さり、今の私にとってとってもためになる助言の数々を頂きました。  「私と同じように家族を背負いながら、なおかつどうしてこんなに懐があるの だろう」、自分の悩みで頭が一杯のその時のわたしには、感心すると言うよりも 不思議な気持ちでした。  そしてそれらの助言を得て私はT'sである自分を「自然なありのままの自分」と して肯定して生きて行くことにしたわけです。ある意味では、「中途半端」を容 認するということで、結論を先送りしたとも言えるかもしれません。
薬物の使用と、終了  いつか私も薬物を使用するときが来るのではないか?中学生ぐらいの時から漠 然とそう言う見通しみたいな物は感じていました。副作用とか、全然知らないの で「メルモちゃんの薬」みたいな感覚で捉えていたように思います。  「私も女の子のようになれる薬がある」大学生になったら踏み切るかも知れな い、そう思っていましたが、いざその年齢になると片道切符であると言うことは 解っていましたから手を出すことはありませんでした。それは私自身の体型が元 々余り男性的では無くって自身に対して嫌悪感を抱くほどではなかったからとい うことも有りました。声変わりもなく育ち、髭も薄く、ウエストのヒップに対す る比率は、常に−20pを保っていました。  しかし31歳後半にさしかかった頃から少々男性化の波が激しくなり、更に男 性不妊の治療のためにアンドロゲンの活性を高める薬品の服用を余儀なくされ、 自身の男性化にはっきりと拍車がかかりました。  見る間に髭が濃くなりました。上半身が逞しくなったように思いました。「失 った」と思いました。自分自身の変化を、生理的に受け入れることが困難でした。 「失った物を取り戻す」ために、薬物に手を出しました。1999年、8月上旬 のことでした。  既に繁殖に成功していた私にとって、最も心配だったことは精神の安定性でし た。社会生活をする者として、対外的な安定感を欠くことは絶対に避けたいと思 いました。自分以外の者にとって不快な存在とならないよう、気を使いつつ、服 用を続けました。最初のうちはやはり気分の斑がありましたので、日記を付けつ つ続けていましたが、おおむね問題はありませんでした。  その後5ヶ月間に及ぶ服用により、顔や上半身の筋肉は落ち、雰囲気は変わり ました。自分の体がどんどん理想に近づいて行くのは本当に幸せな事です。それ までの違和感が、嘘のように解消されて行きました。仕事が辛くても、どんな嫌 なことがあっても、この身体の変化が私を軽く支えてくれていました。幸せで口 元がゆるむ感じでした。  この変化に酔いしれていましたが、でも、私は一応一家の柱だから、いつかは やめてしまわなければならない‥‥冷静になって現在の状況を考え、天秤にかけ 直し、初期の目標は達成したと妥協し、服用を中止しました。  最後の服用は1999年12月29日、この時点ではシーメール的な体型を手 に入れていました。しかし、この時点でAカップだったバストは現在、ほぼ完全 に消失しています。
HPの立ち上げ  私の中のもやもやとした物‥‥。そんなに人に言えるほど忙しくもない人生で したが、今までそれをまとめることはしてきませんでした。まとめてしまうと踏 み切ってしまう、そう言う怖さもありました。でもそのもやもやは、インターネ ットを初めてからは強く、大きくなるばかりで、時によっては一日中頭の片隅に 居座るようになってきたのです。  「この気持ちは何なんだろう?」  「私は一体、何物なのか?」  「これからどうして行きたいのか?」  実行に移す方法を認識するにも、まず自分のことを知らなければなりません。 それに私はこの世界のことを余りにも知らないし、お友達だっていない‥‥。  お店にいきなり行く度胸もないし、でもどうにかしてこの世界とコンタクトを 取りたい。だから、とりあえず今は自分が出来る範囲で自分の部屋の扉を開く必 要が生じているんだ、と強く感じました。  それでそれまでのもやもやを吐き出すような気持ちで、とりあえずHPを形にし てみたのです。開設当時、「楽しいページにしよう」とか「綺麗なページにしよ う」といった気持ちの余裕は、全くありませんでした。
オフ会に参加し始める  ネットの中で「オフ会」という物の存在を知っていた私。様々なHPでその様子 をレポートしている記事や写真を見て、「なんてみんな活き活きと楽しそうなん だろう、私もいつか参加できる時が来るのだろうか」と、画面の向こうに確かに 展開している「現実の世界」に憧れるようになりました。  みんな綺麗です、本当に男の人なの?、自信もありません、メイクもできない し、服も靴も持っていない、でも私もあの中に入っていきたい‥‥。  いつになるか解らないデビューのその日を目指してメイクとカメラに向かって 笑う練習なんか、するようになりました。この作業は、HPの立ち上げを見込んで いた私には好都合でした。  そうやって煮詰まっていると、ある日みけさんからのメールに「天の声」が。  「10月10日、名古屋に行く予定です、お会いできると良いですね」  つまり麗人にいらっしゃるんだ、と言うことは解りました。HPを立ち上げてか らまだ2週間だし、服もみんな捨ててしまったし、メイクだって‥‥うろたえな がら私は、しかし自身の参加を確信していました。  ずっと決めていたんです、「チャンスがあったら表に出よう」って。 こうして巡り会った初めてのオフ会は、少し前に亀戸のエリザベスに行ったこと もあってそれほど抵抗無く、参加することが出来ました。それには同行いただい た方とあのお店の肩のこらない雰囲気が大きかったのかも知れません。純粋に楽 しいな、と思いましたし、またすぐに来たいとも思いました。こうして2回目か らは平気でお店の扉を開けるようになっていきました。  オフ会を重ねるにつれ、様々なT'sの方と出会うようになります。V・G・S、境 を超えてお友達が沢山出来ました。この年になって、親しい友人がこれだけ出来 るなんて、とても幸せなことだと思います。共通の、もしくは近い悩み、趣味、 趣向を持つ者同士、結びつきはそれまでの友人達よりも強い物があるのかも知れ ません。  こうして、私の遊びの機会の多くをオフ会が占めるようになり、意識面を含め て女性化すること、また、それを解放することが自分にとって次第に「普通のこ と」となって、ネットと共に日々の生活に浸透して行きます。
生活面での変化  意識がより女性化して行くことにより、生活様式などが若干変化し始めます。 服装についてはとりあえず「男物」を周到に避けるようになりました。以前の同 じ様な格好をしていても、ジーパンとシャツはレディースと言った感じです。意 識としてはそれが自然であり、男物を着用することは、有る程度「思い切り」を 要求するようになりました。「男装」という概念の発生です。休日一人で何処か へ出かけるときには、薄くナチュラルに顔を作るようにもなりました。服装と同 様に、それが精神的に「しっくりくる」からです。  仕草、姿勢も変化してきます。意識して変化させたのではなく、いつしか髪を 触るような仕草さえその雰囲気を変えて行きました。薬物により劇的に筋肉が落 ちて力が無くなったことにより、重い物を持つ、担ぐ、等の動作を変えなければ ならなかった事など、ある種必然的に変化した面もあります。  自分で解る変化は、やはり人にも解るものです。「意識の女性化」が、妻にも 解るようになりました。職場でも家庭でも、「中性的」という評価を通り越して 「女性的」であると評されるようになります。  その人の雰囲気を感じるとき、その佇まいから発せられる何かを感じてその評 価を行うものです。「女性的」であると評されることが増えてきた現在、それは 私の今までの方法論が有る程度正しかったという証明になるのかも知れません。 ですが「男性」として社会生活を送る以上、それは謂われのない中傷、軽視など のデメリットを伴う物でもありました。  ネイティブの方はどの様な蔑視の中で生きて来ているのか、片鱗をかいま見た ような気もしました。そして、「それらを気にしないような強さ・はねつける強 さが必要になってくるのだな、」と感じました。
両立というテーマ  果たして可能なのか?女性化と家庭、まるきり逆の精神性を要求されることに なります。正直言って、全然自信がありません。自分が男性として家庭にベース を置いているこの状態は当事者以外の方から見れば、まるで成立しない、非道徳 的で矛盾を含んだ物であると指摘を頂くところでもあります。  いつまでこのまま進んで行くのか、両方の自分が捨てられない私は自動的にど ちらかが追い込まれて破綻するまで待たなければ、その答えは出ないようにも思 います。おそらく自分勝手で寂しがりな私は二者択一となった場合、女性面を切 り捨てるのかも知れません。私は家族を切り捨てる事なんて、考えるまでもなく 出来ないですから。  1999年は、ただ私は思い切り女性面を解放してきました。今年は、どこま でこの二律背反的な状況を両立できるのか、とりあえず余り身構えずにやってみ ようと思います。


椎名沙月

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